ミニマム コラム

執着せず。最低限のモノで。日常の共感。

たったひとつのモノを買うのに悩む僕

箸

今使っている箸がボロボロになってきた。この箸は母が大量にストックしていたもののひとつ。

 

数年前のこと。台所を整理していると至るところから箸が出てきた。どれも百均で買ったような箸。未開封の三膳セットの箸。大量の割り箸。菜箸。使い古しが輪ゴムでまとめられたもの。使い古しの箸なんて捨てればいいのに。使えないわけじゃないからという理由でとっておいたのだと思う。

 

千手観音のようにたくさん手があったってこんなに沢山の箸はいらない。口はひとつしかないんだから。箸の数本だけを残し、ほとんどを処分した。残した箸は定期的に交換してその在庫を減らしていった。そして今使っている最後の一本もボロボロになってきた。

 

「そろそろ交換時期だよなぁ」と思い機会がある度に箸売り場を覗いていた。自分のために箸を買うことなんて生まれてはじめてかも。まあ、他人のために買ったこともないのだれけど。

 

買うのであれば六角箸がいいなとずっと思っていた。以前に六角箸を作る職人のドキュメンタリーをテレビで見た記憶があって、それ以来の憧れなのだ。

 

調べてみると六角は幸運を招くといわれているらしい。また、亀甲をイメージさせるので縁起のいい形ともされているらしい。鶴亀は縁起物の象徴だよね。だけども僕にとってはそんなことはどうでもいい。職人が作る六角箸というものに粋を感じる。

 

ただそれだけの理由でそれが欲しいのだ。

 

 

「箸のくせに五千円もしやがる」

 

六角箸は総じてどれも高い。一本あたりで考えても二千五百円もする。まあ、箸を一本単位で考えても仕方がない。僕にとってそこまでの価値があるのだろうか。

 

普段、そこまで箸に注目することがあるだろうか。やはり百均の箸でじゅうぶんではないだろうか。六角箸以外も見てみる。一膳が五百円、千円程度のものも沢山ある。しかし、どうにも安っぽくみえてしまう。

 

デザインされてないものがいい。木の素材そのままでいい。できれば六角がいい。値段とデザインとのバランスを考えると、どうもしっくりくるものがない。

 

たったひとつのモノを買うのにここまで悩むようになったのが最近の僕。モノを買う前の悩んでいる時間って意外と楽しいから、これはこれでいい。

いろんなことを欲張ると結局モノは買えない

革靴

 

いくらミニマムな生活を目指していてもそれなりにモノは欲しくなる。欲しいものは実は沢山ある。そのほとんどは新規購入ではなく買い替え。今欲しいのは靴だ。

 

ビジネス用と普段用の中間くらいの靴が欲しい。外履き用に持っている靴は三足で、そのうちの二足は革靴。もう一足はスニーカーだ。そのスニーカーがボロボロになってきて、いい感じに穴が空いている状態で少しみっともない。さすがに買い替えたい。

 

自己主張が激しいガッツリとしたスニーカーは好きではない。しかし、色の派手さは欲しい。

 

以前は赤をポイント色として取り入れることに凝っていた。だから今のスニーカーは赤。しかもこのスニーカーは超絶軽い。軽いスニーカーは疲れない。だから気に入って年中履いていたらボロボロになってしまったのだ。いわゆる履き潰したという状態。使い切った感がある。

 

見た目的にかっこいいのは革靴だが、革靴はすでに二足ある。だからできればカジュアルよりの靴が欲しいのだが、これがなかなか見つからない。デザイン的にはスッキリしているもの。ビジネスでも普段用にでも使えるもの。色は赤か青。夏は青系統の服を着る機会が増えるから青い靴がいいか。でも、冬に青はいかにも寒々しい。そもそもビジネス用に赤や青の靴という考えに無理があるか。

 

靴売り場を覗いていると期間限定、格安オーダーメイドで靴が作れるというコーナーがあった。赤や青も選べる。革靴だが使用する革は柔らかくて靴ずれの心配もなさそう。同じ素材の既製品が四万円代で、オーダーメイドにしても五万円代だから確かに安い。でもなぁ、いかにも革靴なんだよなぁ。もう少しカジュアルよりにならないものか。

 

いろんなことを欲張ると結局モノは買えない。でも、このくらい悩むのがちょうどいいとも思っている。

僕のミニマリズム2017

ミニマリスト

ミニマリストという言葉を聞かなくなって久しい気がする。この言葉が流行りだした頃には批判的な意見も増えたし、僕自身もその言葉に恥ずかしさを覚えた。だって、どうでもいいことだしさ。その人がミニマリストだろうとなんだろうと。

 

ミニマムの定義も違っていて、極限まで減らすことを求める人もいれば、シンプル生活にとどまる人もいる。ほとんどの人にとっては目標としてのミニマリストだったのではないかと思う。一種のあこがれ。カバン一つでブラリと自由な生活をする人への憧れ。スナフキンへの憧れ。

 

 

僕にとっては、まさに憧れだった。今でも憧れてはいるが、結局は憧れのまま。現実には生活がある。自炊をすればそれだけで多くのモノを持たざるを得ない。おしゃれだってしたいから、それなりに服も持ちたい。今は過去最低限の服の量だけど。

 

 

買っては手放すということを繰り返していて、買った分以上に手放しているから、服の数は徐々に少なくなる。

 

情報断捨離もしたいところだが、それもなかなか難しい。テレビの向こうの人のセクシャリティがどうとか、薬で逮捕されたとかそんなことはどうでもいいけど、僕自身の役に立つ情報は世の中に多くあるから、情報をシャットアウトするわけにもいかない。垂れ流しの情報はシャットアウトしたけどね。

 

僕にとってのミニマリストとはモノを減らすことだけではなく、気持ちをすっきりさせるための手段のひとつだ。心穏やかに。気持ちをおしゃれに。気持ちをすっきりさせるためには目の前の整理整頓から。雑然としたモノの中ですっきりなんて生活できない。雑多には生きたくない。

 

気持ちの整理のためにブログを書く。気持ちを書き出す。時にストレスを吐き出す。僕にとってはブログは大切なツール。だからパソコンは手放せないし、いつでもどこでもブログが書けるスマホも手放せない。

 

スマホはブログが書ければじゅうぶんだから格安スマホでよい。お金に余裕がないと気持ちにも余裕が生まれない。常にお金のことを気にしながら生きるなんて窮屈過ぎる。たくさんのお金はいらない。欲すれば労働のために時間を消費しないといけない。窮屈な毎日更新。穏やかになんていられない。だから無駄な支出を減らす。

 

結局のところ僕はミニマリストにはなれない。シンプリストがいいところだと思う。いろんなことを考えると、シンプリストがいちばんバランスがよさそう。最小限+αで自分に心地よい生活を送ることができれば。それが僕の目指したいところ。

大切なものが多すぎるんだよ

大切なモノ

「大切なものが多すぎるんだよ」

 

最近、どこかで耳にした言葉だ。どこで聞いたのだろうか。本?映画?誰かの会話?うーん、思い出せないなぁ。

 

印象に残る言葉だった。

「大切なものをたくさん持っているんだね」ではなく「大切なものが多すぎる」

 

僕の生活も多すぎたのだと思う。なにもかもが多すぎた。だから少なくしようと思った。

 

過ぎる

ある場所を通り越す。通過する。

時間が経過する。

 

そうか、過ぎるって過去形なんだ。今じゃなくて過去なんだ。だから多すぎちゃダメなんだ。過去をかかえてちゃダメなんだ。

 

過ぎる

一定の数量を超える。

普通の程度、数量を超えている。

 

自分の容量を超えてまで持つ必要はないよね。一定の数量、普通の程度ってのは人によってその基準は違うのだろうけど、その基準を間違えちゃいけないってことだよね。

 

両手いっぱいに大切なものをかかえたとする。大切なものはどんどん増えていって、一番下にあるものはなんなのか、自分でさえわからない。抱えられる量は限られているから、それはどんどんと溢れていく。なにを落としたのか。落としたことにさえ気が付かない。たくさんの大切なものを抱えているつもりでいるのは僕だけ。

 

「わたしがプレゼントしたもの落としちゃったんだね」

 

そんなことはないさ。ほらこんなに大事に抱えているじゃないか。えーっと、どこだっけ?ほら、左腕のこのあたり。

 

うわっ

 

僕は大切なものを確認するために必死にもがいて、バランスを崩して、そしてコケた。それらの大切なモノは海の底の暗いところへズブズブと沈んでいった。僕は自分の足元さえも見えなかった。たくさんのモノを抱えているだけで精一杯だった。

 

両手いっぱいに持っていたモノは全て失った。

 

残ったのはこの身ひとつ。

 

それが欲しい理由は結局・・・

指時計

僕は今とても気になっているものがある。指時計だ。

 

かわいくない、これ?

 

指輪のように装着する時計。なんともおしゃれだ。僕が気になっている指時計は写真のもので三万円を越える。時計としてはまあまあ普通の値段だけど、単純に三万円と考えるといい値段するように感じる。

 

Amazonで「指時計」と検索すると意外とたくさんヒットする。安いモノだと千円程度で買える。

 

だけども、その見た目は値段相応。いかにも安っぽい。縁日で売られているおもちゃの指輪みたい。まあ、千円だと知っているから安っぽくみえるだけかも。僕はモノの価値なんてわかっちゃいない人間だから。

 

僕が気になっている指時計はmocoというブランド。特に三角形の指時計が気になっている。三角形の時計って珍しくない?

 

アンティークな感じの作りも好み。見れば見るほど欲しくなるからあまり見ないようにしている。こうやって記事にすれば、それを手にしたつもりになるかもしれないと期待したが、今のところそうはなっていない。気になるものは気になるのだ。

 

僕はだいたいがアクセサリーを見につけるタイプの人間ではない。腕時計も身につけない。スマホをみれば時間はわかるから時計は必要ではない。アクセサリーも一時期は集めていたことがあるのだが、つけていると気になるのだ。

 

「なんか邪魔だな」

 

一度はやってみる。そして自分には必要ないことを知る。自分のモノにしないとわからないことは多い。体験してみないとわからないことは多い。テレビ画面を通して南の島のきれいな風景を見るのと、実際にそこを訪れることとは全く違うのと一緒。

 

僕はその指時計を手に入れてどうしたいのだろう。指は隠すところではないから人目につく。そして僕の指にはまっている指時計に気がつく。人は珍しいモノをみれば、それに興味を示すはずだ。話のキッカケになる。

 

「なにそれ?時計?かわいい。おしゃれ~!」

 

そうか、僕は「おしゃれだね」って言われたいだけなんだ。

丁寧な暮らしで充実する日々

栗の皮剥き

丁寧に生活することに気がつくと僕はとても充実感を感じる。それは大抵あたりまえの日常の中にある。掃除をすることだったり食に関することだったり。今の時期であれば栗の皮をひたすら剥いているときにそれを感じる。昔の人はこうやって少しずつ冬の支度をしていたんだろうなぁ。

 

昔の人にとっては冬は越すものだったのだろうと思う。

 

こ‐す【越す】
ある時期を過ごして送る。 「冬を―」

 

その時期を乗り切るために保存食を作る。食材が手に入らなくても困らないように。秋に採れた食材をムダにしないように。

 

栗の渋皮煮、干し柿、漬物、ジャム。いずれも時間をかけてじっくりと作るもの。昔は余計なことに時間をかけない分、こういうことにたっぷりと時間をかけられたのだろうと思う。

 

なにも考えずにもくもくと目の前の作業をこなす。不思議と頭の中も浄化されていく。終わったあとは充実感でいっぱい。単純作業が苦手な人は苦痛だろうね。僕はさいわいにも単純作業が苦痛じゃないタイプだから、このような作業に充実感を覚えるのだ。

 

掃除にしてもそう。雑巾をしぼり、目の前の床を拭いていく。汚れたら、また雑巾を絞り床を拭く。その繰り返し。終わったあとに「よし」とつぶやきたくなる。

 

乾き終えたあとの洗濯物をたたむ作業。正座をして一枚一枚丁寧にたたむ。夏用の下着はずいぶんとくたびれてきたから、冬がくる前には処分しようと思う。そして来年の夏がくる前に新調しようと思う。来年の予定が少しできた。

 

日常の作業は面倒だと思わないこと。面倒だと思うから食器は山積みになるし、ソファの上に服の塚ができる。埃まみれの部屋で生活するようになる。汚れる前に片付ければ部屋は汚れない。散乱している部屋をみて「あーあ、なんだかなぁ」と思いながら毎日を過ごすと自分自身も「あーあ、なんだか」な人間になりそう。実際にそうなっていた時期はある。

 

僕はこんなふうに考えている。

 

  • 食事の準備は健康でいるため
  • 掃除は運動代わり
  • 洗濯は自分がスッキリ、おしゃれになるため

 

別のことに置き換えてみると少しはやる気がでるから不思議。

なにもない部屋に近づける方法

部屋

「この部屋ってなにもないよね」

 

僕の部屋を見た人は口裏を合わせたかのようにそういう。なにもないってことはない。机がある。椅子もある。ベッドや布団がある。クッションもあれば洋服もハンガーにかかっている。「なにもない」のではなく「なにもないに等しい」ということなのだろう。

 

確かにテレビはないし、棚もない。壁にはなにも貼ってないし、飾り付けてもいない。どこと比べているのかといえば、もちろん自分の家もしくは部屋と比べているのだろう。

 

「自分の部屋に比べればなにもないに等しいよね」

 

これが正解。冒頭の言葉をピカソの抽象画のように簡略化していくと「なにもない部屋」ということになる。あなたと比べればなにもないに等しいかもしれないけど、僕はまだなにか減らせるのではないかと思っている。

 

ソファなんていらないんじゃないか。ソファが必要な理由はひとつだけ。楽な姿勢でいられるから。もう少し具体的にいえば、楽な姿勢で本が読めるから。

 

パソコン用の椅子に座って本を読むのは堅苦しい。もう少しリラックスしたい。ベッドに寝転がって本を読むのは少しリラックスし過ぎ。寝転がるのはかえってつかれる。その中間的存在がソファだ。ということはリラックスできる姿勢が維持できればソファは必要ないということになる。

 

まずはもたれかかれるなにかが欲しいところ。壁では硬すぎる。では、ベッドどうだろうかともたれかかってみる。いいのだが、若干、角度が急すぎる。もう一歩リラックスできない。

 

腰の位置にクッションをはさんでみよう。うーん、もう少し背中を包まれている感が欲しいところ。安心して身を任せられない。背中とベッドの間の隙間を埋めるものが欲しい。

 

「布団はどうよ?」

 

布団の神さまが僕に語りかける。そうだね、布団がいいかもね。自由自在に形を変えられるし。さっそく、布団を背もたれ代わりにしてみる。

 

「いい感じやん」

 

さすが布団の神さまだ。これでソファなしでも部屋でくつろげそう。

 

「これでソファの神を追い出すことができそうだ」

 

ん?なにか言った?布団の神さま?

 

こうやって考えていくと、ドンドン物は減らせる。

 

  • 代用できるものはないか?
  • 見方を変えれば別の使い方ができるのではないか?

 

考えるということは大事だね。