紙の月、その感想 金に使われた女たちの物語
紙の月 角田光代 2012年3月発行
金に翻弄される女たちの話です。お金が欲しいというのは結局、見栄を張りたいから。きれいに着飾って化粧をして、美味しいものを食べて、ワンランク上の暮らしを手に入れて。
欲は果てしない。見栄を張って手に入れた上質であるはずの暮らし。それに自分が追いつけるはずもなく。無理やり作り上げた虚栄の生活はいつかは崩れる。
子どもがいない夫婦の日常はとても退屈なようで。
旦那は仕事にやりがいを求めることで日々を充実させる。稼いでいるのは僕なんだから僕の方が上だよね。君がパートに出て稼ぐったって、僕の給料にはかなわないよね。言わなくてもわかっていることをわからせようとする旦那。
妻はパートの銀行員になり不正を働く。ほんの少し借りるだけだから。いつかは返すお金だから。最後には辻褄を合わせるつもりで借りたお金の額は自分でもわからなくなっていく。辻褄を合わせるはずの最後はどんどん遠ざかる。
恋人だった不倫相手の男はそんな生活に疲れてしまう。「ここから出して」「頼むから」と。
子どもの頃の裕福な暮らしが忘れられない女。普通の男と結婚し、普通の暮らしを送るがそれでは満足できない。
「子どもに服も買ってあげられない」
「ピアノも習わせてあげられない」
「別荘に連れていってあげることもできない」
何十着の服を買ってもそれでは満足できない。まだまだ足りない。街金融に手を出し、自分に必要な暮らしを手にいれようとする。それでも満足などできるはずもなく。それで十分だったはずの普通の暮らしまで失うことになる。
私は今まで、何を自由だと思っていたのだろう?何を手に入れたつもりになっていたのだろう?今私が味わっている、途方もなく馬鹿でかい自由は、自分では稼げないほどの大金をつかった果てに得られるものなのか、それとも帰る場所も預金通帳もすべて手放した今だから感じられることなのか。
欲や見栄とはおそろしいものです。でもそれは全て自分の中にあるもの。自分でコントロールすべきもの。それがコントロールできないというのは、どこかおかしくなっているのかもしれませんね。
僕自身、たくさんのモノを買って、たくさんの洋服を買っていました。本の中の女性たちと同じような気持ちを持っていました。
身の丈に合わない暮らしは疲れます。僕は今の生活、今の量の持ち物くらいがちょうどいい。欲張ればなにか大切なものをなくしてしまうのだろうから、ほどほどにしておこうといつも思うのです。