有吉佐和子「恍惚の人」を読んでの感想
人は誰でも年を取る。どんなに立派な肩書があっても、どんなに沢山のお金を持っていても同じように時間は進み、歳を重ねやがては死ぬ。その直前、人はどのようになるか。老人問題を描いた一冊。今から45年も前に取り上げられたこの問題はよりいっそう深刻になっている。
恍惚
- 物事に心を奪われてうっとりするさま。
- 意識がはっきりしないさま。
- 老人の、病的に頭がぼんやりしているさま。有吉佐和子著「恍惚の人」(昭和47年)により流行した。
茂造の妻が亡くなったあとに茂造の認知症が発覚する。茂造は頻繁に徘徊し、家族はそれを追いかける。「腹が減りました」といっては食事の時間にも関わらず食べる。放っておくと鍋いっぱいの煮物を平らげてしまう。
「強姦がきた」といっては自分の息子から逃げる。なぜか嫁の昭子だけは認識できる。誰が面倒をみてくれるのか本能的にわかっているのかもしれない。
少し目を離したことがきっかけで茂造は風呂で溺れる。浅い風呂で溺れることを不思議がる家族。茂造は高熱を出し三日三晩うなされるが、なんとか回復する。
しかし体力は格段に落ちていて徘徊することもなくなったし、ほとんどしゃべることもなくなった。昭子をみればニコリを微笑む。それが意思疎通。頑固で笑顔のひとつも見せなかった茂造がなんとも穏やかな人間になった。
まさに恍惚の人。甲斐甲斐しい家族の介護が産んだ結果かもしれない。
最後の場面。
「ママ、もうちょっと生かしといてもよかったね」という息子の言葉に昭子は涙する。
茂造が「老人クラブは年寄りばかりだから行きたくない」という場面がある。僕のおばあちゃんも全く同じことを言ったことがある。入院していたときのことだ。
「ここはね、年寄りばっかり。早くうちに帰りたいわ」
自分をなんだと思っているんだろうねと身内で笑ったことがある。
昭子の息子、敏は両親にこんなことを言う。
「パパもママも、こんなに長生きしないでね」
早く死んで欲しいとは思わないが、長く生きられても困る。これが本音ではないだろうか。
この本を読み終えたばかりの夜。僕は夢をみた。そこには母がいた。
夜中だというのに必死に米を研いでいる。バケツやら鍋やら、そこら中にあるものに米を入れては必死に研いでいる。
「お米を研がなくちゃ」
母は呆けてしまったのだろうと僕は理解した。そんな母の姿をみて僕は悲しかった。目が覚めて、現実にはそんな母の姿も見ることができないということを改めて実感すると、もっと悲しかった。