「俺もきっと、君みたいな少年だった。」への僕の思い
ツイッターで流れてきた一枚の写真。なぜだか僕は泣きそうになった。なんだろう、この気持ち。少年の後ろ姿。なんの汚れもなく、ただただ純粋。
僕の中のヒーローが目の前にいて、それに憧れてポーズを決める。僕もヒーローだ。かっこいいぞ、少年。特にその左腕。憧れには必要以上に近づかない。遠くから眺めるからこそ、それはかっこよく見えるのだ。
俺もきっと、君みたいな少年だった。 pic.twitter.com/tko9C8zX3P
— 大谷秀一郎 (@shuuichiroo) 2017年7月2日
大人が見れば、ヒーローたちがかわいそうに思えるくらいに観客は少ない。シュールにも見える風景。でも、この少年にとってはそんなことは関係ない。僕とヒーローだけの世界。それに夢中なのだ。
この写真の構図と色感がいい。そして、添えられた一文。「俺もきっと、君みたいな少年だった」きっと君みたいだった。本当にそうだったかなんて大人になった僕にはわからない。でも、きっとそうだったと思いたい。
そんな純粋な気持ちはどこへいったのだろう?その気持ちは自分でも手が届かない奥底に隠れていた。その気持ちをこの写真は呼び戻してくれた。僕だってこの少年のように純粋なころがあったのだ。
純粋
- まじりけのないこと。雑多なものがまじってないこと。
- 邪念や私欲のないこと。気持ちに打算や掛け引きのないこと。
- そのことだけをいちずに行うこと。ひたむきなこと。
「ヒーローショー見たいっていうから、一時間も前から場所取りしていちばん前を取ってたのに。直前になってあんたがオシッコっていうから」
僕はこの話を母親から何度も聞かされた。そんなこと言われても僕はこの記憶がまるでない。僕も戦隊者のヒーローが好きな少年だったようだ。いつしかそんなヒーローには興味がなくなった。そんなヒーローなんていやしない。倒してやりたい悪者はたくさんいるけど。
大人になった僕に事あるごとに語っていた母親。母親の中ではいい思い出なのだろう。そんな母親ももういない。僕の子どもだった頃のできごとを語ってくれる人はいない。僕の記憶は僕の中にもすでになくて。
そんな思い出を母親はとても大切にしてくれていて。こんな思い出になるのだから、僕が直前になってオシッコに行ってよかっただろう?
ヒーローに憧れる少年はいつの時代にもたくさんいる。その少年は次第に現実を知り、ヒーローになれないことを知る。次第に雑多なものがまじってゆく。邪念や私欲を持つようになる。人と駆け引きすることを覚える。そうしないとヒーローのいない世界でうまく生きていけないから。それが生きる術だから。きれいごとだけでは生きていけない。
蘇れ、僕の中のヒーロー!