ミニマリズムは禅に通じるものだ
僕は禅というものに興味がある。
ぜん【禅】
仏語。精神を集中して無我の境地に入ること。
禅はミニマリズムに共通するものがあると思っている。
ミニマリズム(minimalism)
- 1980年代米国の文学の一傾向。日常生活を抑えた筆致で淡々と描いた短編が多い。
- 余分な飾りを完全に取ったシンプルな機能に徹したシルエットを特徴とするファッション。また、そういう考え方。
ミニマリズムというのは正確にいえば文学やファッション、音楽・美術などに対する言葉として使われているようだが、まあ、細かいことはいい。要するに無駄なくシンプルという意味で僕は使うことにしている。
一方、禅は精神面のお話。目を瞑り坐禅を組み、なにもない空間でただひたすら自分と向き合う。そうすると無我の境地とやらにたどり着けるらしい。
無我の境地とはなんだ?
無我の境地
- 雑念を排除し、完全にものに執着しなくなった心持ちのこと
- 自己というものを無の境地に至らしめること
無我の境地に達した人。まさにミニマリストではないか。禅を極めれば底にたどり着けるのか。どのくらい取り組めばいいのだろう?五年か十年か?それとも一生涯をかけて、なおたどり着くのは困難な道なのか?
そんな気の長いことは考えていられない。とりあえず今日できることはなんだ?
とりあえず目を閉じてみる。黙祷。
目を瞑れば、そこは真っ暗。視覚的には無だ。しかし、その分、ついつい余計なことを考えてしまう。どうでもいいようなことを。
今日はなにを食べようか
あ、あの仕事は今週中に片付けなきゃ
いかん、いかん、なにも考えないんだ
なにも考えてはいけないんだ
考えてはいけないと思えば思うほど、余計なことばかりが頭をよぎる。寝なきゃ、寝なきゃと思うほどに眠れなくなる夜みたいに。
無になるということのなんと難しいこと!
なにもないというのは本当にむつかしい。
どうしてだろう?僕らはなにも持たずに生まれてきたはずなのに気がつくとこんなにもたくさんのものに囲まれ、こんなにも多くの複雑な気持ちをかかえ生きている。
死ぬときだって、どうせなにも持っていけやしない。感謝の気持ちだけをこの世に残して去ってゆきたい。
そのために生きているあいだをどうするべきか。できるだけシンプルにしなければ、本当に自分に大切なものは見えてこない気がする。今の僕はまだまだ複雑すぎて、それさえもよくわからない。