ミニマム コラム

執着せず。最低限のモノで。日常の共感。

身軽でいることの大切さを綿ぼこりに学ぶ

掃除

今朝は少し余裕がなかったけど、毎朝恒例の雑巾がけをした。恒例といっても、まだ一週間程度の恒例である。雑巾がけをしないという選択肢もあったが、それはなんだか気持ち悪かった。マラソンランナーが走るのをやめることができないように。気持ち悪さを感じるということは自分の中の習慣になりつつあるということだろう。よしよし、なかなかいい習慣だ。

  

しかし、この習慣は真冬でも続けることができるだろうか?真冬の一番水が冷たい時間帯に素手で雑巾を絞ることができるだろうか?まあ、そんなことは真冬になってみないとわからない。意外とその凍えるような水の冷たさが心地よかったりするかもしれない。そんな根性も心の余裕もないかもしれない。

 

週末は家を空けていたので、それほど汚れていない。埃も溜まっていない。ふと壁に目を向ける。壁に綿ぼこりが張り付いている。こやつ、こんなところにへばり付いておったか。見つけたからには見逃してやるわけにはいかぬ。埃はいつの間にか集団化し、綿ぼこりとなる。綿ぼこりとなった彼らは、床から壁へと這い上がっていく。海から陸上へと生活の場を移動した生物のように綿ぼこりもまた進化する。

 

埃ぼこりはその軽さゆえ、好き勝手に移動する。雑巾で拭こうと思っても、そのわずかな空気の動きで逃げ回る。捕まらないようにベッドの下に潜り込む。そうか、身軽でいると移動しやすいんだ。

 

床に置かれた本は決して自分では移動しない。本には重さがあるから。床に積まれた洗濯物の山は決して自分では移動しない。しかし、限界を超えると意に反してその山は崩壊する。

 

床掃除をしているその間は、いつもおばあちゃんの姿を思い出す。おばあちゃんは今の僕と同じように毎朝、雑巾がけをしていた。僕たちが朝ごはんを食べている間に床にひざまづき、丁寧に掃除をしていた。僕も自然とおばあちゃんと同じ格好で掃除をしている。床掃除を終えた雑巾をバケツの上に広げるようにして干す。この感じ、どこかで見たことがあるなと思ったら、おばあちゃんちにあるそれと一緒だった。

 

おばあちゃんはいつの頃からか、そういう掃除をしなくなった。あの家におばあちゃんがひとりで暮らすことになってから、掃除の習慣がなくなったのでは?と思っている。要するにおじいちゃんとの別れがきっかけだ。自分ひとりになって、やる気を失ってしまったのかもしれない。単に年齢的につらくなってきただけのことかもしれない。

  

僕が転勤になり、兄弟が結婚し家を出て、父も仕事で家を離れている間、母は大きな家でひとりで暮らすことになった。

 

「作ってあげるひとがいないと、ご飯とかどうでもよくなっちゃうのよね」

 

その間、母はまともな食事はしていなかったんだと思う。作るのが面倒だから、そこらへんにあるお菓子とかを適当に食べていたようだ。あんなに料理が得意だった母なのに、自分のために頑張るっていのは得意じゃなかったんだね。

 

床掃除をしている間はいろんなことを思い出す。