モノと気持ち、空っぽのバランス
ミニマリスト系ではじめた当ブログだが、最近ではそれをネタに記事を書くことがめっきり減った。僕のブログにはミニマリズムというカテゴリーがあるが、それも年頭に一度書いたきりだ。三月にも記事はあるが、それは過去記事を加筆修正したものだから、正確には今年の記事ではない。
ミニマリストネタでブログを日々更新している人はすごいと思う。よくそんなにネタがあるなぁと。なにもないところから、なぜそんなにものネタが浮かんでくるのかと。
本当のミニマリストはネットの世界にはいない。ミニマリストがランキングで競い合っているはずがない。そういうものから抜け出すためにモノを減らす。モノを減らして心を豊かにする。 僕は少しづつだが、それを実感している。モノも減ったが、ココロも空っぽでは意味がない。
怒りやいらだちといってマイナスの感情は以前に比べて格段に減った。モノと向き合うのではなく自分と向き合うようにした結果だ。どうすればイライラしなくなるか。どうすれば怒りを抑えることができるか。
今でも過去の出来事を思い出してはイライラすることはある。思い出すのは自分にとって理不尽なできごとであり、納得できなかったできごと。子ども時代のできごとや学生時代のできごとであることが多い。
大人の勝手な解釈で理不尽に怒られる。僕は曲がったことが嫌いな正確だから、相手が間違っていると思えば、親だろうが先生だろうが反論した。結果、力で押さえつけられることがほとんどだった。納得すればさ、素直に謝るよ。そういう話し合いをしようよ。
そんな過去のできごとを思い出してはイライラし「いかんいかん」と気を紛らわせる。忘れたいことに限って忘れることができない。
理不尽なことっていうのは今でも多くあって、僕はそれに関わることをやめた。どうせ他人はコントロールできないのだし、コントロールできたとして、所詮他人だ。
「そういう人間なのだから仕方がない」「それに関しては嫌なやだけど、それ以外はいいやつだ」とそれ自体から目を背けるようにしたのだ。それを大人になったというか、小賢しくなったというかは知らない。
動作をゆっくりとするというのは今でも心がけている。いいなと思える人たちは、ゆったりとした喋り方をする人が多い。せかせかしていない。どこをとっても余裕を感じるのだ。
一歩引き、相手に「どうぞ」と譲る。譲られれば相手は悪い気はしないから攻撃してくることもない。今のところ「余裕があるふりをしている」だけの僕である。でも、それが大切だと思っている。とりあえず真似てみるということ。頭で考えるのではなく、実践する。
僕はミニマリストの領域ではないが、多くの人に比べれば圧倒的にモノは少ない。まだ減らせるような気はするが、必要以上にそれを行うつもりはない。だけでもモノから目は背けていない。モノというのは気がつけばあっという間に増えてしまうからだ。そこは気を抜けない。
モノは少なく、ココロは豊かに。という言葉は使い古されている感はあるが、それこそが僕が考えるミニマリストのあるべき姿だ。