ミニマム コラム

執着せず。最低限のモノで。日常の共感。

雨の日の日記

ブログ

気が付いたら、一か月くらい、まともにブログと向き合ってなかった。前回の記事は下書き記事をアップロードしたものだし。

 

台風15号は大変な台風でしたね。僕史上、もっとも強烈な台風だったかも。ベランダの窓が報告に向かって雨風が降るものだから、窓ガラス割れるんじゃないかって心配した。

 

車の心配もしたけど、さすがに車が吹き飛ぶほどじゃなかった。自分の部屋から車の様子をうかがっているときに、どこからか転がってきたプラスチックの鉢植えが自分の車に直撃したのが見えた。見るんじゃなかった。知らないほうがしあわせなこともある。

 

台風15号の3日後(?)の突然の荒れ模様もびっくりした。ちょうど車を運転しているときだったので、台風のときよりも恐怖を感じた。

 

横なぐりの雨で視界は超絶悪いし、空はピカピカ光ってるし。こんなときでも車のスピードを落とさない命知らずもいるし。

 

僕は雷が大の苦手だ。

 

それは僕が小学生のときの話。僕がよく遊んでいた近くの海が埋め立てられることになった。工事現場と化した海は通学路から見える場所にあった。日々、埋め立てられていく海。僕は悲しかったよね。どうしてわざわざここを埋め立てなきゃいけないの?って。

 

ある日、先日のように天気が荒れた。雷が鳴り響いた。工事をしている人に雷は落ち、その人は死んだ。

 

雷って人が死ぬんだ

 

それが僕の中に植え付けられた。それからこわくて、雷が鳴ると傘を閉じてびしょぬれになりながら必死に走って家に帰った。小学生の僕は死ぬのがこわかった。

 

そんな記憶があるから、僕は今でも雷はこわいし、死ぬのもこわい。

 

でも、死のこわさは、以前よりは少し減った。昔が100なら今は98くらい。いろんな人の死を経験してきたからだと思う。祖父母の死、友達の死、上司の死、そしてなによりも両親の死。

 

死がわけのわからない恐怖の存在ではなくなってきている。誰にでも平等に訪れる最後だから、わざわざそれを意識する必要もない。放っておいても死は訪れるのだ。

 

おそれることに意味はない。それはまだやってきていないのだから。やってきたら、どうしようって考えればいい。そうやって気が付いたら、人生が終わってたってのが理想の最後。

 

今週のお題「理想の老後」