ミニマム コラム

執着せず。最低限のモノで。日常の共感。

捨てパーティー開催からの捨て作業最終章

僕っぽい

パソコンを整理していたら、メモが出てきた。僕が書いたのだろうか?記憶にはないが、内容は全く共感できる。まさに僕が実践している内容だ。

 

でも、僕は「捨てパーティー」なんて言葉は使ったことないし「捨て作業最終章」なんて言い方もしたことがない。

 

いいこと書いてあるなって思ったんで掲載しておきます。僕じゃない別の誰かが書いた文章かもしれないし、僕が書いたものかもしれない。

 

いずれも海外のミニマリストが書いた本です。僕は日本人ミニマリストの考えよりも彼らの考え方のほうがしっくりときた。自分にとって無駄なものを排除し、本当に必要なことに集中する。いいかえれば、本当に必要なことに集中するためには無駄なモノの一切を排除しなければならないということです。お気に入りのモノに囲まれて暮らすとかそういうことじゃないのです。

 

僕は今、自分史上最小限の持ち物で暮らそうとしています。捨てパーティーを開くたびに「もう捨てるモノはな」と思うのですが、少し時間が経てば「あれも捨てられる、これも捨てられる」となるのです。

 

今回も実はそう。「もう捨てられるモノはないよなぁ」と思いつつ日単位で捨てるモノがみつかる。

 

今は捨て作業最終章に入っているのでしょうか。絶対捨てられないと思っていたものをドンドン手放しています。あの執着はどこにいってしまったのでしょうか。ひょっとすると一線を越えてしまったのかもしれません。

 

自分にとって「食」は大切なので料理道具は捨てない。だけども、「あったら便利」程度のモノは排除する。ピーラーは不要。よく切れる包丁があったらいい。ワインオープナーは不要。家で飲むことがなくなったから。飲みたくなったら外食する。ワインのビンをゴミとして処分する手間も減る。

 

おしゃれはしたいので服は買うけど、同時に手放すこともする。持ち数を増やさない。そうすれば余計なハンガーを買わなくてもいいし、収納に悩む必要もない。納得できるものを身につけていれば自分に自信がつく。

 

家の掃除は最低限にしたいのでモノは増やさない。モノが増えると掃除が大変になる。さぼれば後日もっと大変になる。掃除道具も買わない。使い古したタオルをさらに使い倒す。

 

僕は今、これまで自分が経験したことがないことを経験したいと思っている。今しかできないことがあるはず。この地で経験しておくべきことがたくさんあるはず。自然を楽しみたいと思っている。街はどこに行っても同じようなもんだし。

 

「アイム ミニマリスト」を読んでの感想

アイム ミニマリスト

YODOKARIさんが出している本「アイム ミニマリスト」

 

 YODOKARIさんが出されている本を読むのはこれで三冊目となります。

 

www.a-s-blog.com

 

www.a-s-blog.com

 

ミニマリストというよりはタイニーハウスやトレーラーハウスで小さく暮らす人たちの紹介本です。

 

こういう暮らし方を考えている人って自分の生活をできるだけ自分の力でやっていこうとする人が多いような気がします。小さく暮らそうとすれば、冷蔵庫も洗濯機も邪魔になりますから、自然とそれらを持たないで生活できる方法を模索するようになるのだと思う。

 

でも、小さく暮らすっていう話をしているのに、話がどんどん膨らんでいくのってなんだか違うよなぁっていつも思うんですね。自然に寄り添った生活をする。自然に感謝する。人に感謝する。ボランティアでコミュニティの大切さを知り、海外に活動の場を広げる。生きていることの意味を考え、話は地球誕生までさかのぼる。

 

こうなるとミニマリズムうんぬんではなく、別の話ですよね。僕が求めているものとはちょっと違う。僕がなにを求めているのかは自分でもわからないけど。

 

僕は今の暮らしの中でできるだけモノを持たない生活をしたいっていうだけ。仕事に追われ現代の生活に疲れているわけでもないし、サラリーマンとしての働き方に疑問を抱いたこともない。

 

だから無理のない生き方(たくさん稼いでたくさん使う)を目指しているわけじゃない。そもそも今の僕は無理などしていない。

 

でも、今の社会の暮らし方にはやっぱ行き過ぎた感はあると思っている。必要以上に消費をさせられる仕組みつくり。僕が生まれたときにはすでにたくさんのモノがあって、それが当たり前になっていた。だから僕はちょっと立ち止まって考えてみた。結果、モノを減らすと楽に生活ができることがわかった。

 

 

本書には何枚か写真もでてきますが、決して少ないモノで生活している感じはない。僕からすれば普通にモノに囲まれて生活している人たちだって思う。だからタイトルである「アイムミニマリスト」に惹かれて読んだら肩透かしをくらうと思います。 

 

面白いなと思ったのは第6章「旅するように住まう」です。一部はこちらのサイトでも紹介されています。

 

yadokari.net

 

特定の家を持たずにホテルなどを転々とする生活です。そのため持ち物は段ボールふたつ分だけ。その日どこに泊まるかはその日に決めるのだそうです。

 

面白そうだとは思いますが、僕が実践したら日々落ち着かずストレスになると思う。旅行でホテルに泊まるときは前もってきちんと準備をしておきたいタイプだから。少しの物音でも目が覚めるのでカプセルホテルは無理だし。

 

でも、期間限定で実践してみたい気持ちはありますね。そうするといやでも今よりももっと持ち物を減らさなくてはいけない。そこまで自分を追い込んでみたい。

 

「小さな家で暮らすってどうなんだろう?」ってことに興味がある方は読んでみてはいかがでしょうか?

 


アイム・ミニマリスト

極小部屋に住みたいのか?考えてみた

カプセルホテル

先日、カプセルホテルに泊まる機会があった。まあ、その機会は自分で作ったんだけど。

 

過去にカプセルホテルに泊まったのは僕がまだ大人ではなかったころ。そのころは、まだ「ただ泊まるだけ」のためにお金を使えなかった。

 

当時、泊まったのは本当のカプセルホテル。なにが本当かって、寝るスペースだけのカプセル型だったってこと。今回は利用したのは個室タイプ。だから本当の意味でのカプセルホテルではない。単に狭い部屋なのだった。

 

トイレとシャワーは共有だけど、個室利用者専用。部屋は個室といっても完全な個室ではない。扉は金属製のアコーデオンカーテンになっていて鍵は掛からない。上に隙間もあって、ロフトから顔を出せる。

 

ロフトが寝るところ。テレビもついている。今の時代、わざわざホテルにテレビを置かなくてもよくない?スマホで時間潰せるわけだし。どうしても見たいテレビがあれば家で録画しておけばいいわけだし。

 

NHKなんてテレビの台数分、受信料払えって言い出したんでしょ?その分がコストとなって、結局は宿泊料に加算されるわけでしょ?そもそもテレビを設置すること自体、コストでしょ?WiFiを用意しておいてくれればそれでいいよねぇ。

 

なんか話がずれた。

 

狭い部屋といえば最近、QUQURIってのが話題になってますね。6畳弱の極小アパート。6畳あれば極小じゃないじゃんって思ったかもしれないけど、トイレ、シャワー、キッチンを含めて6畳。それらが部屋の半分を占めるから実質3畳。でも、その上にロフトがあるから、実質6畳。どれが本当の実質なんだか。

 

人気なのは立地と家賃。東京23区で6万円。都内だったらかなり安いですよね。

 

でも、今回、カプセルホテルに泊まって思いました。狭いのはイヤ。

 

最近、タイニーハウスや小屋の本を読んで狭い暮らしに憧れを抱いていたんだけど、やっぱ狭いのは無理だって思った。

 

  • 息苦しい
  • 手が伸ばせない
  • 筋トレとかできない
  • 足とかぶつけて痛い

 

理想は1Kでしょうか。生活スペースとキッチンは別にしたい。冷蔵庫のモーター音がうるさいから。ニオイも気になるから。

 

なんていいながら過去にはワンルームに暮らしていたこともあったんだけど。モーター音もニオイもたいして気にはならなかったんだけど。

 

くつろぐスペースは6畳。そこにベッドをおく(寝るのは重要だからベッドは必須)他にはパソコンがあればそれでいい。服は収納スペースでしょ。靴は下駄箱でしょ。食器はキッチンでしょ。部屋に置くものは他にないでしょ。

 

6畳の空間で広々生活。それが理想。

 

「スモールハウス」を読んでの感想

スモールハウス

 

スモールハウス自体の紹介本ではない。なぜスモールハウスなのか。小さい家に住むことにどんな意味があるのか。スモールハウスに対する考え方が記載されている一冊。読み物として面白いです。

 

第一章 小さくて家らしい家

第二章 物を持たない暮らし

第三章 簡単で大胆なエコロジー

第四章 自由を得るのにお金はいらない

第五章 誰でも手に入るローカルユートピア

第六章 質素な生活と高度な思索

 

こういう系の本って「ステキな暮らし」「豊かな暮らし」なんてことを前面に出す傾向があるけど、本書はそんなキーワードとは無縁。

 

各章で紹介されている事例は全て海外の事例。日本でスモールハウスはまだあまり見かけないですよね。狭い土地に無理やり家を建てて結果的に極小住宅になった話はよく聞きますが、最初からスモールな家を建てようとした事例はあまり聞かない。

 

第一章はスモールハウスの先人ともいえる人の家の紹介。家の大きさは10平米で駐車場の車一台分のスペースよりも小さいといいます。いらないスペースを引き算していったら、結果そうなったのだとか。

 

第二章は物を持たない暮らしの紹介。日本でも少し前に話題になったミニマリストのお話しです。物を持たなければ家も小さくていいよねということ。

 

第三章はエコロジー視点のお話。大きい家を持とうとすれば、環境にも負荷がかかる。たくさんの木が必要だし、土地も必要。それによって多くの二酸化炭素や廃棄物が出る。だからみんなスモールでいいんだという考え。

 

第四章はお金の話。小さく暮らせば経済的。資本や経済にまどわされることもない。見得を張って大きく暮らすよりも小さい暮らしのほうがしあわせさという考え。

 

第五章はスモールハウスであれば誰でも手にはいるよというお話。アメリカではセルフビルドで家を建てる人が多いんだとか。試行錯誤でいいからやってみてごらん。意外と自分でもできちゃうからというススメ。

 

 

第六章は精神面のお話。シンプルを極めるために何度も引越しを繰り返してきた女性。その理由は「意図的に、意図的なものを排除したかったから」らしい。禅問答ですね。

 

最近、文庫本が出たようです。買おうかしら。

 

「ひとつ買ったら、ひとつ捨てる」ルールの目的

ゴミ

 

新しいモノを買ったら、持っているモノをひとつ捨てるというルールがある。僕はこのルールをバカにしていた。そんなルールに縛られなくても厳選して買えばいいだけじゃん。不要なモノは捨てたいときに捨てればいいだけじゃん、と。

 

でも、最近になってようやくこのルールの有効性がわかってきたような気がする。それは「欲しいものを手に入れたいときの後押し」としてのルール。ひとつ捨てればひとつ買ってもいいんだといういいわけにできるのだ。

 

ようするに「捨てるためのルール」ではなく「買うためのルール」

 

無人島になにかひとつだけ持っていっていいとしたらなに持っていく?

 

こんな非現実的な「会話を楽しむためのルール」を日常生活にうまく取りいれたのが、この考えた方だと思う。

 

楽しみながら捨てる。考えて考えて、、、別にそこまでして捨てなくてもいいはずなんだけど、その過程が楽しいっていうか。

 

多分、それだけ悩んで捨てたものなのに数日もすれば、捨てたモノのことなんて忘れているんだと思う。新しく手に入れたモノのほうに気持ちは向いているんだからね。

 

僕は今、コーヒーミルが欲しい。コーヒーは好きなのだが、自分で豆を引いてまで飲みたいとは思わなかった。

 

でも、会社の後輩が持ってきたコーヒーの香りのよさったら。どうにも忘れられない。彼は毎朝自分で豆を引いて、コーヒーを入れてくるのだという。

 

今の僕は会社ではドリップコーヒーを愛用している。厳選して自分のお気に入りのものを愛用しているのだが、自分で引いたそれに比べるとなんとも・・・。

 

だからコーヒーミルが欲しい。毎朝、自分で豆を引いてみたい。自動のそれを買えば、そんなに手間ではないはず。

 

だけども、モノが増えてしまうことがネックで買えないのだ。というより「欲しいなぁ、欲しいなぁ」と日々、コーヒーミルのことを考えているこの状況を楽しんでいる。

 

そして「ひとつ買ったら、ひとつ捨てる」ルールを適用しようとしている。買うためになにを捨てるかを考えている。

 

これがなかなかに難しい。そして悩むのが楽しい。

 

ないものねだり

ない

朝が忙しいのは出かける時間が決まっているから。

 

あっという間にこんな歳になったなって思うのは人生のゴールが見えはじめたから。

 

中学生の三年間が異常に長く感じたのは早く大人になりたかったから。

 

大人になれば、なんでも自由にできると思ったから。

 

大人同士だ。叱られることなんてなくなると思ったから。

 

夏休みの四十日間が長かったのは毎日やることがなかったから。

 

休みの日が長く感じるのは、その日の予定がなにもないから。

 

そのくせ月曜日が憂鬱になるのは、どうしてだろう。

 

ないものねだり

無いものをむりに欲しがること。

 

だって僕にはそれがないんだもの。そりゃ欲しくなるよ。

 

手にしてしまえばそれで終わり。子どもがおもちゃをねだるのと同じ。

 

駄々をこねて、店の中で暴れまわって、汚い床を転げ回って、大声で泣きわめいて。そうまでして手に入れたおもちゃは一瞬にして飽きてしまう。

 

だってさ、親との駆け引きが面白いんだもの。どうやったら買ってくれるか。子どもだから手段を選ばないのさ。

 

たくさん買って、たくさんもらったから、もういいのさ。なぜだか満たされることはないんだ。もう部屋の中はそれらでいっぱいさ。

 

僕は気がついてよかったと思うんだ。隣の家のおじいちゃんなんて見ろよ。表の道路までそれらで溢れかえっているぜ。

 

大切なんだって。いくら他人がどうこういおうが、どうにもできないんだって。大切なものが多すぎるっていうのもアレだよなぁ。 

 

大事にし過ぎてな、大切なものが大切なものに埋もれてしまってな、なにがなんだかわからなくなってるんだよな。

 

それでも力ずくで奪い取ってやる。

モノと気持ち、空っぽのバランス

ミニマムコラム

ミニマリスト系ではじめた当ブログだが、最近ではそれをネタに記事を書くことがめっきり減った。僕のブログにはミニマリズムというカテゴリーがあるが、それも年頭に一度書いたきりだ。三月にも記事はあるが、それは過去記事を加筆修正したものだから、正確には今年の記事ではない。

 


ミニマリストネタでブログを日々更新している人はすごいと思う。よくそんなにネタがあるなぁと。なにもないところから、なぜそんなにものネタが浮かんでくるのかと。

 

本当のミニマリストはネットの世界にはいない。ミニマリストがランキングで競い合っているはずがない。そういうものから抜け出すためにモノを減らす。モノを減らして心を豊かにする。 僕は少しづつだが、それを実感している。モノも減ったが、ココロも空っぽでは意味がない。

 

怒りやいらだちといってマイナスの感情は以前に比べて格段に減った。モノと向き合うのではなく自分と向き合うようにした結果だ。どうすればイライラしなくなるか。どうすれば怒りを抑えることができるか。

 

 

今でも過去の出来事を思い出してはイライラすることはある。思い出すのは自分にとって理不尽なできごとであり、納得できなかったできごと。子ども時代のできごとや学生時代のできごとであることが多い。

 

大人の勝手な解釈で理不尽に怒られる。僕は曲がったことが嫌いな正確だから、相手が間違っていると思えば、親だろうが先生だろうが反論した。結果、力で押さえつけられることがほとんどだった。納得すればさ、素直に謝るよ。そういう話し合いをしようよ。

 

そんな過去のできごとを思い出してはイライラし「いかんいかん」と気を紛らわせる。忘れたいことに限って忘れることができない。

 

理不尽なことっていうのは今でも多くあって、僕はそれに関わることをやめた。どうせ他人はコントロールできないのだし、コントロールできたとして、所詮他人だ。

 

「そういう人間なのだから仕方がない」「それに関しては嫌なやだけど、それ以外はいいやつだ」とそれ自体から目を背けるようにしたのだ。それを大人になったというか、小賢しくなったというかは知らない。

 

動作をゆっくりとするというのは今でも心がけている。いいなと思える人たちは、ゆったりとした喋り方をする人が多い。せかせかしていない。どこをとっても余裕を感じるのだ。

 

一歩引き、相手に「どうぞ」と譲る。譲られれば相手は悪い気はしないから攻撃してくることもない。今のところ「余裕があるふりをしている」だけの僕である。でも、それが大切だと思っている。とりあえず真似てみるということ。頭で考えるのではなく、実践する。

 

 

僕はミニマリストの領域ではないが、多くの人に比べれば圧倒的にモノは少ない。まだ減らせるような気はするが、必要以上にそれを行うつもりはない。だけでもモノから目は背けていない。モノというのは気がつけばあっという間に増えてしまうからだ。そこは気を抜けない。

 

モノは少なく、ココロは豊かに。という言葉は使い古されている感はあるが、それこそが僕が考えるミニマリストのあるべき姿だ。